★ 峠の約束 ★
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号364-5563 オファー日2008-12-03(水) 19:46
オファーPC レオ・ガレジスタ(cbfb6014) ムービースター 男 23歳 機械整備士
<ノベル>

 くーん、という声でふと気付くと、ムクという名の紀州犬がこちらを見上げていた。
 「ごめんね。今日はもう終わりなんだ」
 筋骨隆々の巨体をかがめ、レオ・ガレジスタは黒いオイルがついたままの軍手でムクの頭を撫でてやる。すっかり成犬らしくなったムクはふんふんと鼻を鳴らし、白い息を吐きながらレオの頬を舐めた。
 初めてこの犬を拾った時は戸惑ったものだ。生き物であるムクからは、機械たちのような明確で論理的な意思を読み取ることができない。それでもこの自動車整備工場で毎日顔を合わせるうちにいくばくかの意思の疎通というものができるようになって来た気がする。
 「うん。仕事は終わったけど、まだ帰らないんだよ」
 先輩の整備工たちは三々五々帰途に着いた。『銀河モータース』の看板も既に灯が落とされ、夜の帳に包まれようとしている。
 (残業かい、レオ。タイムカードはまだ押さないほうが良かったんじゃないかの?)
 (仕事じゃないんだ。個人的な楽しみと約束……かな)
 陽気に『声をかけてくる』タイムレコーダーに思わず苦笑いを返した。
 有色の紀州犬は尻尾をぱたりと動かし、やや鼻面を下げて上目遣いにレオを見上げる。まるでこれからレオが出かけることを悟っているかのようだ。
 「ごめんごめん、ムクは連れて行けないんだ。あ、意地悪してるわけじゃないんだよ? うーん、なんて言ったらいいんだろう……」
 身の丈2メートルの巨漢が犬の前で頭を両手で抱えて唸っている姿はどこか微笑ましい。
 「待たせたな」
 そこへぶっきらぼうな声がかかり、レオは「あ」と声を上げて立ち上がる。黒のライダースーツに身を包んで現れたのはこの整備工場の店主だ。
 「行くぞ、レオ」
 フルフェイスのヘルメットを小脇に抱えた店主はレオの返答を待たずにずんずんと歩き出した。その後について店のガレージに赴けば真っ赤なバイクがレオを出迎える。ぴかぴかに磨かれて整備されたバイクの姿はどこか浮き立っているように見えて、嬉しくなる。
 「寒くないようにしてけよ。今夜はだいぶ冷えるらしいからな」
 「うん。この分だと雪が降るかも知れないね」
 レオの言葉に店主はかすかに唇の端を持ち上げた。笑ったらしい。
 レオがこの真っ赤なバイクと知り合ったのは、銀河モータースで働き始めて間もない頃のことだ。


   ◇ ◇ ◇


 銀幕市に実体化したレオは、持ち前の機械整備技術を生かしてこの工場で職を得ることができた。機械の意思を感じることのできるレオの技術は先輩の整備工をして「魔法のよう」と言わしめたほどである。あらゆるものが機械によって動いていた世界で機械の面倒を見たり、整備・修理をしたりしていた整備士のレオにとっては天職であったといえよう。
 (あれ?)
 ある日、部品を取りに倉庫へ向かったレオはふと足を止めた。
 機械の『意思』が聞こえた気がした。

 さみしい。

 はっきり感じ取ることはできなかったが、それはそんなふうに言っているような気がしたのだ。
 (何だろう)
 ぐるりと視線をめぐらしてみても声の主らしきものは見当たらない。首をかしげて立ち去ろうとした時、古びたガレージがふと視界に入った。
 
 ……さみしい。

 今は使われていないそのガレージから、確かにそんな気持ちが流れ出して来ていた。


 「あのー」
 巨体を縮めて声をかけると、先輩整備工は「あん?」と語尾を持ち上げて振り返った。
 「あそこのガレージに置いてある赤いバイク、どうしたの? ずっと放置されてるみたいだけど」
 新入りのレオが恐る恐る尋ねると、口の荒い先輩はぴくりと眉を動かした。
 「おまえ、なんでそれを知ってる?」
 「さっきたまたま見かけたんだ。……その」
 探るような先輩整備工の視線の前でレオは更に縮こまり、うつむく。「とても寂しく思っているように見えたから、どうしたんだろうと思って」
 「あぁ……そうか。おまえは機械の意思みたいなもんを感じ取れるんだったな」
 三十過ぎとおぼしき整備工はそう言ったきり腕を組んでしまった。
 「どうした? 難しい顔して」
 思案顔の同僚を見た別の整備工が話に首を突っ込んでくる。
 「いやな。こいつが、あの赤いバイクを見たって言うもんだからよ」
 「……あのガレージのか」
 「ああ。“とても寂しそうに見えた”んだとさ」
 「ほう……」
 先輩二人の会話は奥歯に物が挟まったかのようだ。二人の顔を交互に伺い、レオは首をかしげて再度口を開く。
 「修理の痕があったけど、もしかして事故車か何かじゃ」
 「ん、まあ、な」
 曖昧に言葉を濁し、後から話に加わった整備工がレオに向き直った。
 「気にすんな、ただの事故車さ。それより仕事しろ仕事。新入りはキリキリ働いてなんぼだろうが?」
 「す、すみません」
 ただの事故車ならどうして処分しないんですか?
 新たな疑問が生まれたが口にはしなかった。正確には「早く行けよ」と冗談交じりに尻を蹴られ、口に出すタイミングを見失ったというべきか。口は悪いが気の良い先輩に追い立てられ、レオはあたふたと仕事に戻るしかなかった。


 赤は他の色に比べて褪せやすい。屋外の駐車場に置いた赤い車が年数を経るうちにピンク色へと変じていくのはよくあることだ。
 それでも、屋根のあるガレージに安置されていたおかげだろうか。このバイクはそれほど褪色することなく、そこそこ鮮やかな色のボディを保っている。
 (でも……こんなに埃をかぶってちゃかわいそうだよね)
 そっとバイクを撫でたレオの手に湿った感触がざらざらとまとわりついた。
 看板の灯はもう落とされた。周囲にはきんと冷えた闇と静けさばかりがある。仕事を終えていったん帰路に着いたレオであったが、昼間に見たこのバイクのことがどうしても気がかりで引き返して来たのだ。
 大きなバイクである。懐中電灯でそっと照らし出してやると修理の痕跡が目に飛び込んで来た。腕のいい修理工の仕事であろう、それほど目立つ痕跡ではないが、元居た世界ではマイスターの称号を与えられていたほどのレオの目にはひどく痛々しい『傷痕』に映る。
そう、まるで大きな傷を縫い合わせたかのように……。
 「痛かったんじゃない?」
 所々錆びの浮いたボディを丹念に拭いてやり、ぽつりぽつりと言葉をかける。バイクは答えない。だが、レオの手の下で、ほんの少しボディが震えたような気がした。
 それはあたかも涙をこらえて肩を震わせる人間のようで。
 「そうか……痛かったのは体だけじゃないんだね。理由は分からないけど」
 冷えた車体を温めるように、忘れられたバイクを抱き締めるように、そっと両手を当ててみる。
 「だけど大丈夫、また動けるようにしてあげるから。僕に任せて!」
 レオは殊更に明るく宣言し、いつも持ち歩いている工具一式を鮮やかに広げてみせた。


 レオの手は大きく、太い指は日焼けして骨ばっている。機械油が染み込んでいるのだろうか、爪の間には黒い色素が沈着している。皮膚も固く、ごつごつしていて、まさに『鋼鉄の指先』と呼ぶにふさわしい手指であった。
 だが、硬質な指は見た目とは裏腹の繊細さを発揮する。生まれたばかりの赤子にでも触れるかのように慎重に、優しく、心を込めて機械の体に触れ、具合の悪い個所を的確に探り当てては整えていく。それはあたかも熟練した医師が行う触診のよう。
 一分の隙もなく組み上げられた精密機械のごとく。あるいは不可思議に紡がれる魔法のごとく。武骨な手が黙々と動く度、赤いバイクは徐々に生気を取り戻していく。
 夢中になって整備していたから、その人物がガレージに入って来たことにも気付かなかった。
 「おい……おまえ! 何してる!」
 上ずった声。次いで背中から差し込む、懐中電灯の円形の光。
 「ふへ?」
 口に懐中電灯をくわえて片手にレンチを握ったまま振り返ると、そこに立っていたのは寝巻の上にカーディガンを羽織った工場の店主である。ひどく驚いた様子の店主はレオの姿を見とめると安堵とも落胆ともつかぬ複雑な表情を浮かべたようだった。
 「ほ、ほやひはん」
 「……なんだ、レオか」
 懐中電灯をくわえたまま立ち上がりかけたレオに店主は渋面を向ける。「どうでもいいが、それじゃ何を言ってるか分からん」
 「あ、ごめんなさい、おやじさん」
 慌てて懐中電灯を手に握って言い直す。ふんと鼻を鳴らして腕を組んだ頑固な店主が「あいつなわけないよな」と呟いたことにレオは気付かなかった。
 「で、何やってるんだレオ。こんな時間に」
 店の二階は店主の自宅になっている。ガレージから漏れる物音と明かりに気付いて様子を見に来たということらしい。
 「ごめんなさい、勝手に」
 使われていないガレージに黙って入り込んだことを詫び、「でも」とレオは付け加える。
 「このバイクがとても寂しそうに見えたから」
 「何?」
 眉を跳ね上げた店主にレオはうつむき、もう一度「ごめんなさい」と呟く。
 「埃をかぶったままずっとほったらかされてたみたいだし、また走らせてあげたいなって思って……」
 「……で、整備してたのか。こんな時間に」
 「ごめんなさい。今日の昼間に見かけた時から気になってたんだ。先輩たちに聞いても何も教えてもらえなかったから余計にひっかかって……仕事が終わって一回帰ろうとしたんだけど、どうしても気になったから」
 店主の眉間の皺が深くなる。頑固で偏屈、しかし腕は良いという昔気質の職人の見本ようなこのおやじのことだ。雷のひとつくらい落とされることをレオは覚悟していたのだが……。
 「……ふん。やるじゃねえか」
 頑固おやじはレオの脇にしゃがみ込み、真っ赤なバイクの前でほんの少し唇を緩めたのだ。
 ぽつぽつと白いものが混じり始めた眉が懐かしそうに――苦しそうにじわりと下がる。
 「……おやじさん?」
 「はは。さすがにいい腕してやがるな、レオ。ここまで綺麗になるたぁ思わなかった」
 よっこらしょと立ち上がった店主は古ぼけたボディをひと撫でし、自嘲気味の苦笑を落とした。
 「二度と走らせるつもりもねえ単車さ。かといって捨てる決心はつかねえし、このままここに置いとくつもりだったんだが――」
 「駄目だよ、そんなの!」
 語気を強めたレオの声が店主の言葉を遮った。店主は目をぱちくりさせてレオを振り返る。
 「このバイク、とても寂しがってる。ほっとくなんて絶対に駄目だよ」
 物置同然のガレージに立てかけられていたバイクはほぼ問題なく走れるくらいにまで回復した。それでもまだバイクが寂しがっているとレオは言いつのる。この赤いバイクが寂しさを抱えている理由はもっと他にあるのではないかと。
 自分の息子ほども歳の離れたレオの前で、頑ななおやじはすいと目を細めた。陽に焼け、皺の彫り込まれた目許にふと懐古とも後悔とも取れぬ色が滲む。
 「そうだな。寂しがってくれてるんならまだマシなんだがなあ」
 「……え?」
 「時々思うんだよ。コイツも倅も俺を恨んでるんじゃねえかって」
 ボディに寄りかかり、古びたミラーを覗き込む。レオの手によって磨かれたミラーはぴかぴかと澄んだ光を湛え、齢を重ねた店主の顔を忠実に写し出した。
 「実は、さっきな」
 しばし自分の顔の皺に見入った後で店主は苦笑を投げてよこす。「コイツを整備してるおまえの背中が……倅に見えたのさ。おまえと同じで体のでかい奴だからな」
 今頃、ちょうどおまえくらいの歳になってるだろうよ。
 意味深に付け加えられたその一言にレオははっとする。
 捨てられない事故車。修繕はしても走らせるつもりはないというこのバイクは、もしかして――
 「いけねえな。どうも感傷的になってるようだ」
 軽く肩を揺すった店主は小さく息をついてハンドルを撫でる。「聞いてくれるか? あいにく残業代は出ねえが」
 冗談めかした前置きにレオは真面目な顔で肯いた。
 手の中の懐中電灯を持て余すように揺らしながら店主はぽつぽつと話し始める。つけっぱなしの懐中電灯の明かりが、レオと店主、無言のバイクの間を所在なげに彷徨った。


 諦めかけた頃にようやく授かった一粒種ってやつさ。遅くに授かった子供は格別可愛いってなぁ本当だな、俺も女房もそりゃあ目の中に入れても痛くねえほど可愛がっててねえ。
 仕事仕事でろくにキャッチボールもしてやれなかったが、女房に連れられてよく工場を見に来てくれた。バラバラにされた車やバイクを目ぇきらきらさせながら飽きずに見てやがった。
 やっぱり俺の子だって嬉しくなったもんさ。大きくなって免許取ってバイク買ったら二人でツーリングに行こうって約束までしてな。
 で、倅が高校の頃にバイト代貯めて買ったのがこのバイクってわけよ。高校生のガキがこんなでけぇ単車を買うのは結構大変だったんだぜ。遊びもしねえでこつこつバイト代貯めて、高三の終わりになってからようやく中古で買えたんだ。
 そういやぁあいつが俺を「親父」、女房を「お袋」って呼ぶようになったのは単車の免許を取ってからだった。背伸びしたかったんだろうさ。自分も大人の仲間入りだってツラしやがって、おかしかったな……。


 ある年の12月、父と息子の約束が果たされる日がとうとうやって来た。
 「おい、ちゃんとついて来てるか?」
 「初心者に夜道はキツイって! 俺受験生だぜ、事故にでも遭ったらどうすんだよ!」
 買ったばかりの大きな単車をぎごちなく乗りこなし、息子は必死で父の黒いバイクを追う。やや危なっかしいながらも加速やコーナリングがそこそこ滑らかに出来ていることを見てとり、父は息子にサムズアップのサインを送る。
 確かに、ツーリングなら何も夜でなくても良い。免許を取ったばかりの息子に運転させるのなら昼間のほうが無難であろう。
 しかし、どうしても夜でなければいけない理由があるのだ。
 「おい親父、何でこんなトコに来るんだよ!?」
 「いいから黙ってついて来い」
 ワインディングした峠道に悲鳴を上げる息子をやや減速して先導する。息子は四苦八苦しながらもどうにかついて来た。夜の峠道は教習所のクランクコースやS字コースなどとは比べ物にならない難易度であろう。さすがにスピードはだいぶ落ちたが、それでも息子は懸命に父の背中に食らいつく。
 やがて峠のてっぺんに到達し、小さな展望台の前に黒と赤のバイクが並んで停まった。
 「ったく……スパルタ親父め。――――――!」
 毒づきながら展望台へと昇った息子は目と口をぽかんと開けて言葉を失う。父はくすりと笑って息子の背中を叩いた。
 「だから夜じゃないと駄目だって言ったんだよ」
 夜景だ。一面に銀幕市の夜景が広がっている。
 宝石箱をひっくり返したような、とはまさにこのことだろう。あらゆる色の光がかき集められ、無造作に、惜しげもなく散らばっている。ちかちかと瞬きながら光の川の中を緩慢に流れているのは車のライトだろう。宝石の数珠が大きな幹線道路を中心に贅沢に広がり、街全体を美しく彩っていた。
 「銀幕市で夜景を見るならここが一番なんだ。冬の夜景ってのは格別なもんさ、空気が澄んでるから綺麗に見える」
 安い煙草をくわえて火をつける。「12月にな、母ちゃんにここでプロポーズしたんだ。雪が降ってて……景色が滲んで見えて、最高に綺麗だった」
 「マジで? え、まさか『この夜景がキミへのプレゼントさ』とかって言ったりしたのか?」
 「悪いか」
 大真面目に返す父に息子は「うえっ」と大袈裟に顔をしかめてみせた。
 「くっさ、だっせえ、キモッ。ってか、息子にそんなこと話して恥ずかしくねえの?」
 「息子だからこそ話すんだよ」
 「うーわ、余計にくせえ」
 「生意気だぞ、おまえ」
 肘鉄で小突いてやると息子は文句を言ったが、その顔は笑っている。
 口の達者な息子が生意気な態度をとる度、父は倅の頭を肘で小突いていた。それがいつしか父の肘は息子の頭に届かなくなり、肩にも届かなくなって、今はかろうじて脇腹をつつけるに過ぎない。
 体格の良い息子が自分の背丈を追い越したのは何歳の時であったか。それすら覚えていないほど、父は工場の仕事と経営に忙殺されていた。
 (いや……倅だけじゃない、か)
 きんと音を立てるような夜風が頬を撫でて、不意にひやりとした感覚が全身を貫く。
 息子が生まれて以来、我が子を育て上げるためにこれまで以上に遮二無二働いた。工場の二階に自宅があるからどんなに忙しくても家族と全く顔を合わせないということこそなかったものの――妻と二人だけの会話が目に見えて減り始めたのはいつからだっただろうか。
 かつてこの夜景の前で愛を誓い、妻にダイヤモンドを渡した。あの時妻が流した涙はとびきり美しかった。100万ドルの夜景よりもどんなに大粒のダイヤよりもきらきらと輝いていた。
 確かにそう思ったのに。今もそう思うことに変わりはないのに。
 「でもまあ、綺麗じゃん? 俺も好きな子ができたらここに連れて来て口説いてみるか」
 冗談めかしてうーんと背伸びをする息子にふと苦笑を漏らす。
 そうだ。愛し合って結婚したからこの息子が生まれた。可愛い息子は妻と自分を同等に慕ってくれている。だから三人で囲む食卓では妻は笑っている、それは間違いないし、それでいいではないか……。


 確かに家族三人で居る間は妻は笑っていた。だから息子が大学に通うために家を出て以来、妻との関係は目に見えて冷え始めた。折しも工場の経営が危機に直面していた頃で、夫婦の時間は余計に減って行った。
 それでも盆暮れ正月に息子が帰省すれば仲の良い家族でいられた。だが息子がいない時間が重なれば重なるほどひずみは大きくなり、暮れも押し迫ったある年の師走、妻は置手紙を残して家を出た。
 (子はかすがいってなぁよく言ったもんだ)
 冷えた飯にレトルトのカレーをかけて一人でぱくついていると、大学が冬休みに入ったという息子が帰って来た。
 母親のいない家というのは独特の雰囲気に包まれているものだ。息子もすぐにそれを読み取ったらしく、父に詰め寄った。しかし父は力なく首を横に振るだけだ。
 女房の実家にそれとなく電話を入れてはみたが、どうやら田舎に帰ったわけではないらしい。妻の交友関係など元より知らぬ。実家が駄目なら心当たりなどなかった。車に乗って出て行ったからにはそれなりに遠くに行こうとしたのだろうが……。
 「それでいいのか」
 父の投げやりでふがいない態度に息子は激昂した。「本当にそれでいいのかよ!」
 「出て行きたいなら好きにさせればいい。行先が分からなきゃどうしようもない。携帯に連絡してみて……何日か経っても繋がらねえようならその時また考えるさ」
 「もういい、俺が探しに行く!」
 「探しに行くったっておまえ、どこに――」
 「うるせえ! 恋女房の行きそうな場所もわかんねえのかよ馬鹿親父!」


 それが息子と交わした最後の言葉になった。


 「……それで、息子さんは?」
 レオはいつしか息を詰めて店主の話に聞き入っていた。
 「このバイクにまたがって家を飛び出して、事故に遭った。夜だったし、雪も降って滑りやすくなってたし……おまけに焦ってたんだろうな、かなりスピードも出てたらしい」
 淡々と語る店主の声はやけに平坦だ。時々挟まれる溜息はあまりにも深く、重い。
 「意識不明の重体ってやつさ。今もずっとな」
 深い皺の刻まれた手が赤いボディを、レオの手で磨き上げられたハンドルを、ミラーを、大切な記憶を辿るかのように丹念になぞっていく。
 奥さんとはどうなったの? 息子さんのお見舞いには行ってるの?
 喉仏までせり上がったその問いをレオは辛うじて呑み下した。聞いてはいけない気がした。
 「ひとつだけ腑に落ちねえことがあるんだ。……倅が事故に遭ったのは人っ気のねえ峠道だったんだよ」
 「え、それって」
 「おかしいだろ? 女房を探しに行くのになんでそんな場所を――」
 「もしかして、おやじさんが奥さんにプロポーズした峠に行こうとしたんじゃないの?」
 咳込むように尋ねるレオに店主はぴくりと眉を動かした。
 「そうだよ、絶対そうだよ。息子さんは奥さんがきっとそこで待ってるって思ったんだよ」
 「……しかしな」
 腕を組んで数瞬思案した後、頑固な店主は苦虫を噛み潰してレオを見やる。
 「真冬に、女一人であんな場所にか? 夜の峠なんざ一人で行くには物騒だ。そうでなくても女房は俺に愛想を尽かして出て行ったんだぞ、あそこにいる筈ないだろうが」
 「そうかも知れないけど……でも」
 もう一度「でも」と重ね、レオは軽く唇を噛む。
 人間の感情は難しい。機械のようにいつでも明確で論理的とは限らぬ。それに人間は自分にも他人にも嘘をつくし、無理をする。自分で自分を偽っていることに気付かずにいる場合すらあるものだ。
 僕は機械のことしか詳しくないけど、と前置きしてレオは大きな手を大きな体の前で幾度か組み変えた。
 「好きになって結婚して、可愛い子供を授かったんでしょ。いったん好きになった人をそう簡単に嫌いになれるのかな?」
 レオの問いは若さゆえに純真で、素朴で、根本的なものだった。
 そして――「若いもんは何も分かっちゃいねえ」と笑い飛ばすことなどたやすいだろうに、店主はそれをしようとしないのだ。それは果たしてレオの中に息子の面影を見ていたせいだったのだろうか。
 「奥さん……おやじさんが迎えに来てくれればいいなって思いながら待ってたんじゃないのかな」
 節くれだったレオの手がきらめきを失った赤い色彩をそっと包み込む。「きっと君も息子さんもそう思ったんだよね。だからその場所に行こうとしたし……こんなに寂しいんだよね」
 寂しいのはきっと放っておかれたから。自分と、自分を可愛がってくれた主と、主の大好きな両親の時間がずっと止まったままでいるから……。
 (さみしい。かなしい)
 大きな掌を伝って、赤いバイクの慟哭が流れ込んでくるかのようだ。
 (大丈夫。少しずつ、前に進めると思うから)
 陽だまりのような微笑を返して、レオは優しくバイクを撫でる。
 腕を組んだまま目を閉じていた店主は不意に「よし」と背筋を伸ばし、仁王立ちになった。
 「レオ。おまえ、コイツを完璧に整備できるか?」
 「え? う、うん。もう少し時間をもらえれば」
 「時間がある時でいい、やっといてくれ。そしたらコイツで俺とツーリングだ。あの峠に夜景を見に行くぞ」
 唐突で思いがけない提案にレオは目を白黒させる。
 「だけど、これは息子さんの大事な――」
 「だからこそおまえに乗って欲しいんだよ」
 店主はようやく愁眉を解き、かすかな笑みさえ浮かべてレオを見上げた。「なに、長話に付き合ってくれた礼代わりさ。それに、ここで錆びつかせとくよりも乗ってやったほうがコイツも喜ぶだろ?」
 それは違いない。
 どうしようもなく嬉しくなって、レオは弾けるように破顔した。


   ◇ ◇ ◇


 それ以来、冬のツーリングは店主とレオの恒例行事と化すことになる。赤いバイクはレオの手によって丁寧な整備と塗装が施され、目が醒めるようなカラーのボディで新車同然の走りを見せるようになった。
 夜の帳を黒と赤が滑らかに駆け抜ける。身を切るような寒ささえ気にならない。ご機嫌なエンジンは軽快に鼻歌を歌い、リズミカルな鼓動をライダーに伝えてくれる。心地良い振動はやがて一体感を生み、体の芯から生まれた熱が波紋のように指先まで満たしていく。
 『さみしい』と泣くバイクの声はもう聞こえない。このバイクが家族の絆を少しずつ取り戻してくれるのではないかとさえレオは思う。
 「おやじさん!」
 視界をちらちらと雪が舞い始めたことに気付き、店主の背中に向かって声を張り上げた。
 「雪だよ! 今日の夜景、きっと最高に綺麗だよね!」
 フルフェイスのヘルメットの下で店主がどんな表情を浮かべたかは分からない。
 だが――ちらと振り返った頑固おやじは、レオに向かって親指を突き立ててみせたのだ。


 (了)


クリエイターコメントお初にお目にかかります、宮本ぽちと申します。この度はオファーありがとうございました。
筆が滑るように進みまして、字数少なめ捏造多め(…)でお届けいたします。

お任せとのお言葉に甘え、隅々まで(おやじさんの人物像含めて)好きに構想させていただきましたが、どんなもんでしょうか。
しかし…レオ様の出番が若干少なくなってしまった気がいたします。
あまりおやじさんのエピソードを書き込むのも何ですので、最低限の説明に留めておいたつもりです…が。

お気に召していただければ幸いです。
素敵なオファーをありがとうございました!

尚、レオ様がバイクの免許をお持ちかどうかははっきり存じ上げないのですが…
設定的に当然乗れるだろうというイメージがあったのと、運転できるのだろうと推測できる描写が過去のノベルにあったから、ということで。
公開日時2008-12-10(水) 18:00
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